八昌の総本家
若い頃は「八昌」へは怖くて行けなかった。以前から美味しいと噂には聞いていたが、薬研堀の風俗街にあるし、開店は中途半端な午後4時なのに開店前から行列ができている。しかも、店主はとても怖い人で、客を叱り飛ばしているとの噂も耳にしていた。とってもハードルが高いお店だったのだ。
初めての八昌は友人に連れて行ってもらった。どの季節だったか覚えていないけれど、早い時間なのに薄暗かったので冬だったかもしれない。通された鉄板席の片隅にちょこんと座りビールをちびちびと飲みながらお好み焼きが焼き上がるのを待っていた記憶がある。友人によると、壁にびっしり書かれていたというサインや落書きが綺麗になくなっているとのこと。塗りつぶしたのかな、もったいないなと惜しがっていた。しかし、噂によると一部はまだ残っているようだ。
私は店主から叱られることなく、無事にお好み焼を食べ終えることができた。その八昌初体験は「薬研堀 八昌」。当時の私はこのお店が八昌の総本家だと思い込んでいたが、それは全くの間違い。実は総本家は別にあり「薬研堀 八昌」はそちらから暖簾わけしてもらったお弟子さんのお店であった。
古田一族
「八昌」の系譜は戦後まもなく古田正三郎さんが始めた「ちいちゃん」がもとになる。新天地広場に集まった屋台のひとつで、一癖も二癖もある屋台の主たちをまとめる顔役でもあったそうだ。その人望を買われ、のちに建てられたお好み村の初代村長になる。その正三郎さんの長男である隆則さん夫婦が同じ新天地広場で始めた屋台が「八昌」だ。
やがて、新天地広場の立退問題でバラックの旧お好み村が建てられ、正三郎さんとともに隆則さんもそちらへ移ることとなる。その旧お好み村で隆則さんは弟子をとる。それが「薬研堀 八昌」の小川弘喜さんになる。小川さんは独立を前提に隆則さんからお好み焼のイロハを教わった後、店舗を構える際に「八昌」の名前を授かったとのこと。
その後、「ちいちゃん」は正三郎さんの次男が後を継がれ、現在もお元気で店を切り盛りしている。「八昌」はお好み村を出て竹屋町に新しい店舗を構え「元祖八昌」を名乗る。隆則さんが亡くなると、三女由香さんが暖簾を継ぎ営業を続けている。その他に隆則さんの次女の沼田町「ゆりちゃん」、新天地「村長の店」、お好み村「たけのこ」、猿猴橋「紀乃国屋ぶんちゃん 惑星216」は全て古田一族の店になる。
赤い暖簾の八昌
そして時が経ち、小川さんの「薬研堀 八昌」は広島を代表する名店となる。多くの弟子を育てあげ、広島だけでなく全国にその味を継承した店が散らばっていった。一部のファンたちは、それらのお好み焼屋を総称して「八昌系」と呼んでいる。そうやって「八昌」=小川さんのイメージが定着してしまった。しかし、古くから「八昌」を知る人は、赤い暖簾の古田隆則さんのお店を「赤八昌」と呼び、青い暖簾の小川さんのお店を「青八昌」と呼ぶことで両者を分け、古田一族に敬意を表している。
ここに出てこない第3の「八昌」についてはまた別の機会に。